最近、私の下記のヤフブロ記事にアクセスが多かったのでココに保存します。
●コメントにお応えして 2015/7/25(土) https://blogs.yahoo.co.jp/akaruria/34169899.html
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差別反対についてもっと教えてください。まあ常識でしょうが、現在の教育でどのように指導されているのか興味があります。私らは差別について一言も教育されたことがありませんでした。
●私と部落問題との出会い 2016/1/2(土) http://blogs.yahoo.co.jp/akaruria/34483721.html
私が部落問題に出会ったのは、高1の時、一番の友達でEXPO70に一緒に行ったNくんとの出会いだ。
彼は、私の家には遊びに来たが、彼の家には招待されなかった、同対事業の始まる前で、被差別部落と他の部落の経済格差は大きかった。彼は貧しい地域と自分の家を見せられなかったのだ。とても悲しげな表情で、訪問を拒否したのを覚えている。
大学生になり、バイトのお中元配達で、被差別部落に配達した時、彼の心がわかった。
以後、同和地区の人から、何度か恐喝され、勤務校まで恐喝にきて、警察からは連絡するように言われ、恐喝者が帰った後で、同僚からは「部落研の顧問をやめたいだろう」と言われ、「悪いのは恐喝する人であり、同和地区の人すべてが悪いのではない」といった覚えがある。
部落問題について解説を頼まれているので、まず序論が、この記事です。
しばらく後に、本論「部落問題は、どのように権力者に使われ、民主主義の破壊に利用されたか」を投稿します。今日は、ここまで。
●部落解放史:前近代 2016/1/3(日) http://blogs.yahoo.co.jp/akaruria/34486354.html
賤民の歴史 律令に「五色の賤」というものがあり、神社などに仕える賤民身分や奴隷の規定がある。滋賀県は、比叡山延暦寺の領地が多く、本荘・新庄との地名は、延暦寺の荘園で、日吉神社は延暦寺の氏神。三井寺(園城寺)は延暦寺の分派。
西国は、公家勢力が強く、多くの賤民が存在していた。東国は、開墾地が多く隷属農民が多かった。
中世賤民の「散所・河原者」は、東山文化の貢献者が多く見られ、世阿弥の様な阿弥名の賤民達が、能・歌舞伎・茶道・造園・建築などで活躍し、徳川家・豊臣家の如く賤民出自の大名も多かった。下剋上で階層移動が激しく、身分の違いだけで差別問題というものはなかった。
近世となり、賤民は、皮革を扱うエタ身分と刑吏である非人身分に再編成された。
皮革は、鎧兜・馬具となるので、鉄砲同様、軍需産業で大名の統制はきつかった。街道沿いで死せる牛馬や水の得やすい所に居住させ軍需にあたらせた。代わりに、皮革を扱うのは、エタ身分の特権とされた。従い、豊かなものも多く、食肉、太鼓、芸能等もその特権とされた。非人身分は、城下近くに居住させ、捕り物や処刑業務にあたらせた。これも特権であり、岡っ引きは、十手を預けられ、博打の特権などを与えられた。
身分は、エタが非人の上とされ、後に同和地区と認定されるのは、エタ部落である。非人部落は、認定されていないものがほとんどである。
幕藩体制が動揺するに従い、差別の法制化が強化され、着衣・頭髪・判例の差別が公権力により進められるが、反対の一揆も多く、差別はあまり浸透しなかった。貧しい地区が豊かな地区を蔑むのは難しいという事だ。しかし、綱吉の生類憐みが浸透した仏教思想により、エタは賤しい者と認識されていくのである。
前近代のまとめとして
①身分とは、差別ではなく、特権により生活の保障と代わりの義務を定めたものと認識すべきである。開国により輸入皮革の流通と維新で職業選択が自由とされ皮革産業は誰でも営めるようになり、エタ部落は急激に貧しくなる。部落差別は、資本主義の発展とともに深まるということだ。
②東国は、近世になっても開墾地が多く、大土地所有者と隷属農民(下人)という社会構成で商業なども低調であったため賤民身分はあまり見られない。それに対し、西国は、小地主が多く交易も盛んで、摂津国では、庄屋を選挙で選ぶ村もあったくらい民主主義も発展していた。流通や娯楽の産業も発達していた。
③明治維新の評価 明治になり、地租は重くなり、徴兵という新たな負担がのしかかり、一揆が多発した。学校では読み書きそろばんでなく修身・国史の天皇崇拝を教え負担も重いと学校反対一揆が多発した。明治維新は、市民革命ではなく、幕藩体制崩壊の危機感を深める下級武士のクーデタと私は考える。絶対主義政権下で資本主義化を進めたという訳だ。
今、維新という語を橋下氏と松野氏が取り合ったが、維新は、大衆のための政治ではなくクデータなので、ファシズム化なのだ。自民党は、モノトーンとなりファシズム政党と化した。カルトの公明党がファシズムに走るのは、それがカルトの特性だからだ。
しかし、創価学会でも自民の地方組織でも脱退は増加している。引き締めにやっきとなっているが、差別を強化する政権というものは、体制のいきずまりを白状している様なもので、崩壊寸前なのだ。民主勢力の行動如何ではあるのだけれど。
近代編については次回。あくまで、私の見解と理解していただきたい。
●部落解放史:近代 2016/1/6(水) http://blogs.yahoo.co.jp/akaruria/34492593.html
庶民にとって、江戸時代と近代日本の大きな違いは、税負担が重くなり、差別がきつくなったことである。
陸軍は、1885年、鎮台より師団に改められ、国民の反乱の鎮圧から対外侵略の軍に変えられた。平和な江戸時代と異なり、侵略のための戦争を為す国家により、徴兵され労働地代を課せられ、生産物地代も富国強兵のため重いものとなった。
教育は、修身と国史が重視され、学校は臣民養成の機関で、江戸時代の読み書き算盤の実用的な教育とは大きく変わった。明治初年には、血税(徴兵制)反対一揆や学校焼き打ちが多発した
日露戦争の戦費は、国家予算の8年分で、英米への返済のため税負担は過徴を極めた。15年戦争に至っては、その戦費のデータすらなく、国民には、銭と厘の単位がなくなるハイパーインフレとなった。
部落差別は、学校と軍隊で大きく問題になっていく。戸籍を基に成員を管理する軍と学校に問題は集中する。滋賀県では、生徒の番号を被差別部落と一般部落に分け、並ぶ順番すら差別する小学校もあった。被差別部落は貧しく、働くため小学校にも行けない子ども達が大勢いた。軍では、部落民兵士の軍服の背中に丸印を付ける部隊もあった。危ない任務も多く課せられた。「肉弾三勇士」は、京都の被差別部落の若者の史実で、軍国美談にしたてられたものである。
天皇の赤子で、臣民は平等の建前をつき、水平社の闘争は続けられた。
資本主義の発達のためには、二等市民がいると好都合で、失業者は労働者の賃金を下げるためプールされた。臨時工・期間工も同様である。地主は、被差別部落民が、重い年貢で耕作してくれれば、小作農への支配も強められるのである。
水平社が先頭に立ち、労働組合、農民組合が、三角同盟といわれ大正デモクラシーを作りだしていく。
政党政治を始めた大日本帝国政府は、行政で、被差別部落を差別し、その生活を貧しくさせた。滋賀県では、「霞堤」といって、被差別部落に洪水が行く様につくられた堤防があり、道路も作らねば、被差別部落は更に貧しくなる。
貧しいから、子どもを学校にやれない、安定した就職ができない。この悪循環が続いた。
中間層を藩屏と組織する政府は、普通選挙の実施に伴い治安維持法を制定し1928年には死刑条項追加で、無産党員への拷問が始められていく。滋賀県の水平社員は、天皇が来県する前に、予防拘禁で、何の罪もなくても投獄された。
原敬の政友会政府は、鉄道と高等教育機関の設置で、資本家や地主の票を集めた。
近代日本、それは、小作地率から見れば、次第に上昇した政治だった。つまり中小自作農が小作農に没落した時代なのだ。
搾取と侵略のため、差別は強化されたいった。そして、ファシズムが完成する。
侵略は、差別がないとできない作業なのだ。江戸時代の様に、中国・朝鮮を敬い、身分は、互いを犯さずに生活を保障するものでなく、人を蔑み憎み差別すれば、敵を抹殺できるようになるのである。
●部落解放史:現代 2016/1/8(金) https://blogs.yahoo.co.jp/akaruria/34495767.html
貧しいから、子どもを学校にやれない、安定した就職ができない。だから貧しい。この悪循環が続いた。滋賀県八幡出身の岡林信康の「手紙」や千昌夫の「星影のワルツ」は、結婚差別の悲しさを歌った曲だ。
そして、水平社改め部落解放同盟(解同)の運動で、同和対策事業特別措置法が、1969年に国会で成立し、同和対策事業が始められる。2002年に終結するまで33年間で、15兆円が費やされ、被差別部落の環境改善が行われた。同時に、同和教育や就職差別廃止の取組も進められた。
1970年代初めには、高校進学率(70%程度)が、同和地区は一般地区の半分以下であったが、大いに改善し、高校全入運動もあり企業も就職差別はできなくなった。
1977年に、教師になった私は、片親だと警察を希望できない事や在日韓国人は公務員になれない事を知った。公民権運動の影響もあり、差別撤廃は、国民的課題とされ取り組まれた。
ところが、権力の側は、この同対事業にある作為をする。革新自治体を破壊するのに、社共の共闘を破壊するため、解同に利権を提供し、後に「えせ同和行為」といわれるタカリを黙認する。解同は、解同と全解連に分かれ、総評から全労連が分かれ、自治労と自治労連、日教組と全教、分裂し、革新自治体は崩壊していく。1978年の「社公合意」の後、ウヨクチックな中曽根政権の登場となり、レーガノミクスに呼応し「臨調行革」という新自由主義政策が進められ、革新勢力の退潮は一層進むのである。右傾化の時代である。
同対事業により、実態的差別は解消し、同和地区は貧しい差別される部落では、ほぼなくなった。しかし、心理的差別といって、結婚差別などには課題がない訳ではない。
日教組の活動的教師が「今日も、あの子がいない」と、学校に来れない被差別部落の児童・生徒のために奔走した現実は、今はない。
この「えせ同和行為」とは、解同が行い全解連が反対する利権追及の事で、大阪市の様に自治労の拠点では、解同の同盟員が、仕事をせず高給をもらうという状況が長く続いた。奈良市や京都市も同様だ。
また、解同・日教組の推進する「解放教育」は、部落差別を特化し、部落の解放のための教育を学校で展開した。全解連・全教の推進する「同和教育」は、部落差別も障がい者や在日韓国人やアイヌ等の差別事象と同じ人権侵害ととらえ、イジメをなくす教育も含め展開していく。「解放教育」が、その頃の子ども達(今の40・50代)に反発を与えたのも、実態的差別を感じていないのだから事実であろう。
同和地区出身の弁護士・橋下徹は、これらの反発をあおり、自民党政府が進める公務員バッシングをエスカレートさせ、大阪維新のファシズム体制を作り上げていく。
大阪W選で見せた維新の底流には、同対事業の不公正化で生じた「えせ同和行為」があると私は思う。今の若者に、差別と聞けば、日本人と外国人、正規労働者と派遣・パート、というであろう。
ヘイトが公認されるかのような今の日本で、民主主義を願うSEALDsやママの会に、私が、希望を見出す訳は、ここにある。市民革命は、ここから、いまから。
●手紙 岡林信康 2015/8/4(火) http://blogs.yahoo.co.jp/akaruria/34189842.html
僕は、日本のフォークソングの源流は、近江八幡出身の岡林信康にあると思います。中学生の時、深夜放送で聞いて、内容はわかっていなかったと思いますが、千昌夫の『星影のワルツ』も、部落差別の歌です。
僕が高校生の時、親友の一人が、被差別部落の子でした。僕の家には何度も来たけど、彼は、彼の家に招待してくれませんでした。
同和対策事業が行われる前の被差別部落は、本当に貧しかったです。
高3になり、彼の家ができました。彼は、僕や多くの仲間を招待してくれました。
とても、嬉しそうでした。そう、友達を家に呼べるようになった訳だから・・・
https://youtu.be/lPuv06Rsd8g
被差別部落の女性の遺書がベースになっているといわれ、部落差別を正面から取り上げた超A級の名曲ですが、各メディアが放送を自粛したためか、ほとんどメディアで流されることがなかった作品でした。
私にとっては、差別問題というものをほとんど知らなかった少年時代に衝撃とともに聴いた記憶があり、戦争の愚かさを心にしみこませてくれたのが、フォークルの「イムジン河」だったなら、様々な差別問題について、そして人の心に宿る悲しい闇について考える最も大きなきっかけをくれた歌は、この「手紙」だったように思います。
当時、そうした歌がそれぞれ放送されることがほとんどないという異様な扱いを受けていたわけですが、そのことがまた、これらの歌は世の中の真実、歪みを正面から逃げずに歌っていたのだ、と感じさせてくれるようです。
もとより、ここで差別について語れるような見識は、私などにあるはずもありません。
そして、稚拙なカバーでしかありませんが、ただ、しばらく、心で聴いていただけたら、と思います。
(by kannosuke2008)