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執筆者の写真yf acalulia

僕のばあちゃん


僕は、祖父祖母は1人しか知らない。父方の祖母だ。

子どもの頃、「一番好きな人は?」と聞かれると、この祖母と答えていたそうだ。

おばあちゃん子だったのだ。

祖母は、戦争で、配偶者と家を失くし、実家のある街で暮らしていた。

僕の父は、二男だったので、家族をつれ、現在、僕の住む家に養子縁組をした。

子どもの頃、名字が変わり、イヤだった思い出がある。友達も祖母の家の周りの友達の方が、好きだった。

父は、仕事の都合で、平日は、祖母と住み、土日は、僕たちの住む家に帰ってきた。

小2になると、夏休みなどの長期の休みには、一人で汽車に乗り、祖母の家に行くのが常となっていた。

祖母宅には、父の兄はいず、戦争で男不足のため独身の父の妹が、同居していた。

その叔母が、僕は二番目に好きと言っていた。

終業式が終わるとその足で汽車に乗り、始業式の前日に帰宅した。

長期の休みだけ、父と平日だけ同居するのだ。

しかし、父の兄が、祖母と同居しないのに、僕が、小5の時、転職し、母や我々と常に同居することになった。だが、僕は、相変わらず、休みになると、祖母の家に行っていた。

そして、小6の時、祖母が僕に「さみしいし、帰らないで」と泣いた。

帰りたくはないのだけれど、学校には行かねばならず、僕は困った。

帰ったら、僕は荒れた。

母に、殴った子の家に、よく謝りに連れられていった。父も殴った、祖母を大事にしていないと。

担任や校長先生からは、「少年院に入れる」と脅された。

やがて、中学生となり、部活のせいにして、祖母宅には、行かなくなった。

そして、中2の時、祖母は亡くなった。行かなくなった僕が、祖母を殺したように思っていた。

後に教師となるが、あの時の脅ししか子どもに接するすべを持たないヤクザな教師には死んでもなりたくない、子どもに自己を分析する言葉を与えられる教師でありたいと生きてきた。

だけど、今でも、僕は、前の名字の方が好きだし、僕の故郷は、あの頃の祖母の家だ。

家も周辺も、あの頃とは、大きく変わったけれど。

今、母は、91歳、おおむね元気。父は亡くなって14年になる。

この書庫を、僕が死ぬまでには完成させて、僕の次の世代に検証してもらえたら、葬儀は不要なのです。


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